2009年6月29日 (月)

タイムスリップ食堂

二十数年前、京都で四年間の学生生活を過ごした。その頃に不思議に思ったことがある。「この食堂は、どうして潰れずに、もっているのだろう」。古くて、小さくて、ただし値段は安くて、お客さんが入る気配のない、寂れた食堂がかなりあった。今月から京都に住むようになって、街のあちこちを歩いてみると、当時の食堂がいまだに、そのまま建物で残っている。しぶとい、根強い。

Dsc03300 現在の住まいの近所にも、そんな食堂がある。店頭にメニューが張り出してあって、出巻き定食370円、さかな定食480円。「いろいろおかず250円(?)」。京都の街なかにあって激安の価格である。興味があって、入ってみた。店に入ったとたんに身構えた。

店内には小さなテーブルが5つ。そのうちの4つにテーブルには、老人男性が座っている。4人ともがズボンに下着のシャツ。店内は、どこかで土産品として買ってきたような木工品が所狭しと置かれて、あるいは壁に掛けられて。ラジカセの横にはカセットテープが山積み。エアコンはなく、年代もものの扇風機が首をきしませながら回っている。古びて、そして淀んだ雰囲気に気おされて、店から出ようかと躊躇したときに、恰幅のいい老人から大声を帰られた。「いらっしゃい」。そして老人は店の奥に入ってゆく。

しかたなく空いていたテーブルに腰を下ろした。本当は4人がけのテーブルだが、テーブルの半分は工芸品に占拠されていて、2人でも狭いくらいである。しばらくして、恰幅のいい老人は、お茶を持ってきた。好奇心から、本当は、いちばん安い出巻き定食を頼んでみたかったのだが、遠慮して、さかな定食を注文する。

異空間。大正生まれの祖母は、もったいないと言って、モノを捨てなかった。まるで祖母の茶の間に来たようである。柱時計がボーンと鳴って時刻を告げた。そういえば祖母の茶の間にも柱時計があった。

エアコンがないので、店内は暑い。お客さんの一人が気を効かせ、扇風機の首を調整して、僕の方にも風を送らせようとしてくれている。「ありがとうございます」と礼を述べた。ところが逆に、扇風機の首を固定してしまい、風は僕の方にまったく来なくなった……。吉本ギャグ系のボケ行動パターン。

3人の客は顔見知りらしく、テーブルの間で会話を交わしている。だったら、ひとつのテーブルに座ったらいいのに。しばらく料理は出できそうにない。額の汗をハンカチでぬぐいながら本を読む。

十分ぐらいして、太り気味の腰の曲がった、お婆さんが前のめりの、たどたどしい足取りで、ご飯と味噌汁、漬物を持ってきた。「焼いたアジか、煮付けたサバがありますけど、どちらになさいますか?」。全身黒ずくめで、恰幅のいいお婆さん。かなり濃ゆーいキャラクター。「えっ、いまから聞くの?」と思ったけれど、口には出さすに、サバを注文する。そして、ご飯が出てから3分ほど経って、サバの煮付けは運ばれてきた。湯バーバならぬ、飯バーバの雰囲気を漂わせながら。

食事の味はごく普通。でも値段が安いから、コストパフォーマンスは高いと言えるのだろう。店の看板には「おふくろの味」と回ってあったけれど、むしろ「ばあさんの味」。数十年ほどのタイムスリップ感覚を味わえた。

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2009年3月10日 (火)

映画『長江にいきる』

200_2  2009年に完成予定の中国の三峡ダム。ダムの完成によって、数多くの地域が水没し、百万人を超える住民が移住を余儀なくされた。この映画は1996年から7年の年月をかけ、移住に反対しつづけた家族を追ったドキュメンタリーフィルムである。

主人公はビンアイという女性で、身体の不自由な夫、そして育ち盛りの2人の子供の四人家族で暮らす。彼女が一家の大黒柱として、長江のほとりで農業を営み、つつましやかな生活を送っていた。ところがダム建設による移住命令が下される。移転先は必ずしも条件の良い場所ではないし、移転すれば、生活の糧であった農地を放棄することになる。身体の不自由な夫に大きな稼ぎは期待できない。

行政からの立ち退き要請によって、周囲はどんどん転居してゆき、集落に1軒だけ残される。移住者は、いったん住宅を解体し、屋根瓦やレンガ、木材などを持ってゆき、移転先で新たに組み立てる。だから文字通り、1軒だけになってしまう。期限が近づいても、一家は立ち退こうとしない。行政側から再三再四、立ち退きを要求される。しかしビンアイは折れることはない。

ビンアイは家族を愛し、そして非常に強い女性である。五十キロ近い荷物を背負い、斜面の多い土地を楽々と歩いてゆく。荒地のような畑で黙々と農作業を行う(経済的に貧しいためか、農薬などは使っていないようだし、自然の野草も食料としているようだ)。重労働を行っているから、手の甲には深いしわが刻まれていたが、顔には生気が満ち溢れている。年齢の割には張りがあり、しわも少なかったと思う。何があっても家族を守り、生き抜いてゆくという強さがあり、優しさが感じられた。

映画のなかでビンアイは「私は都会に住むことができないし、都会では怪しい仕事が多い。そして社会全体がおかしくなっている」という言葉を口にしている。彼女は、移転によって村を去った人たちから農地を譲り受けた。ただし一箇所にまとまった農地としてではなく、あちこちに分散した農地として。そして農村でも懸命に働けば、それなりに生活ができると断言した。中国では景気後退によって、都会で職を失う人が多数出ているようだ。土地に根づいた生活を送っていたビンアイの選択は、彼女にとって正しかったのだろう。

あえて明るい照明のもとで撮影され、非常に鮮やかな映像として表現されているシーンも少なくなかった。実態を明らかにすることがドキュメンタリーフィルムの大きな特徴のひとつでもある。

この映画の監督は中国人女性で、僕とほぼ同年代である。日本に留学し、農業経済学を学んだそうだ。僕も同じ大学に通い、農業経済学を専攻した(ろくに勉強せず、自由な校風を満喫した)。大きな農業ではなく、小さな農業の可能性を示していたような気もするのだが……。

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2009年1月11日 (日)

映画『ミーアキャット』

舞台はアフリカのカラハリ砂漠。家族単位で暮らすミーアキャットの生態、を物語仕立てで紹介する映画である。砂漠の過酷な環境。食うか食われるかで、いつも死と隣り合わせ。懸命に生きるミーアキャットの家族。だからこそアフリカの大地や空は、純粋で美しい。

Wp4_3よく、このような映像を撮影することができたものだと感心してしまう。例えば、猛毒をもったコブラが幼いミーアキャットの兄弟たちに狙いを定める。幼い兄弟はコブラに遭遇するのは初めてで、ただ地中の巣穴に逃げ込むしかない。

迷路のような巣穴であっても、やがて兄弟たちはコブラに見つかり、とうとう追い詰められる。絶体絶命と思ったときに、すでに大人になった兄弟たちの兄が巣穴に駆け込み、爪でコブラをひっかく。するとコブラも巣穴から地上に出て、ミーキャットの家族とコブラの戦いになる。家族に加勢しようと、親族のミーアキャットもやってくる。

ミーアキャットは家族を大切にする。年長の兄は、幼い兄弟たちを敵から守り、エサを与え、エサの獲り方を教えてゆく。群の見張り役のやり方も教えてゆく。もちろん、ときには危険な状況に陥り、そして命を落すものも出てくる。落した命は、他の生物たちの生きる糧となってゆく。そのような経験のなかで、大人になる術を身につけてゆく。

主人公のミーアキャットは大人になっても、背の高さは約30センチメートルの小さな動物である。しかし雄大なアフリカの自然を感じとれる映画である。いつかはアフリカの大自然を訪れてみたい。

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2008年12月19日 (金)

ストーンズも温暖化に関心あるらしい

1963年にデビューして以来、一度も解散することなく活動してきたロックバンド、ローリングストーンズ。映画『ローリングストーンズ・シャイン・ア・ライト』は、2006年にニューヨークで開かれたコンサートでの映像を中心に構成されたドキュメントフィルムである。なかなか面白かった。躍動感たっぷりの楽曲の合間に、デビュー直後から最近にいたるまでの、メンバーの声も紹介されてゆく。コンサート会場の熱気をじゅうぶんに伝わってくる2時間はあっというまに過ぎてゆく。

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この映画が撮られた時点でのメンバーの年齢。リードボーカルのミック・ジャガーは63歳。ギターのキース・リチャーズも63歳。同じくギターのロニー・ウッドは59歳であるけれど、ドラムのチャーリー・ワッツにいたっては65歳である。いわばシルバー世代である。にもかかわらず10代20代の若者たちを熱狂させるエネルギーを持っている。とてもアラウンド・シクスティ(60)には思えない。

ミックはステージを駆け回り、身体をくねらせ、手足を大きく振り上げる。それも演出のひとつだと思うが、短いTシャツがめくり上がり、彼の腹部がさらされる。まったくと言っていいほど、腹部にはぜい肉はない。さすがに顔を老けてきたが、63歳には見えない。キースは妖怪のような雰囲気を醸し出し、やや腹部はたるんでいるが、じゅうぶんにスリムである。ロニーは、むしろ昔よりシェイプアップされた印象すらある。さすがに最年長で、すっかり白髪となったチャーリーの息は上がり気味だったが、彼のドラムさばきは滞ることはなかった。日ごろ鍛錬しているのだろう。

かつてローリングストーンズは反社会的なロックグループだと見られていたし、メンバーの一部は刑務所に入ったことすらある。しかし、いまや彼らは社会から高く評価されるようになり、ミックは2003年にイギリスからナイトの称号を与えられた。この映画のコンサートにはアメリカ元大統領のクリントン・ファミリーも駆けつけ、ビル・クリントンはコンサートの冒頭で、友人として彼らを紹介する。「彼らは地球温暖化にも大きな関心を持っている」と。とても意外だったけれど。

映画には登場しなかったが、「イッツ・オンリー・ロックンロール」という楽曲がある(1974年)。聞かせどころの歌詞。I said I know it’s only Rock’n Roll but like it. 「言っただろう。たかがロックンロールってことは知ってるよ。でも好きなんだよ」。

いつまでも好きなことを続け、楽しむこと。好ましい年の重ね方のひとつである。観客だけではなく、彼らはステージでじゅうぶんに楽しんでいた。

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2008年11月12日 (水)

映画『ウォー・ダンス』

舞台はアフリカ中部の国、ウガンダ。北部地域のパトンゴ・キャンプには、6万人ものアチャリ族が暮らしている。彼らは反政府軍に居住地を追われて難民となり、歩いてキャンプまでやってきた。2003年からの地域紛争により、3万人の子供が誘拐され、20万人の子供が親を失った。しかし心に大きな傷を抱えているにも関わらず、彼らにも希望はある。パトンゴ小学校の音楽チームが、年に1度の全国音楽コンクールへの出場権を得たのである。『ウォー・ダンス』は、出場1ヶ月前から彼らの練習風景、そしてコンクールでのパフォーマンスを撮影したドキュメンタリー映画である。

At チームのなかの3人の告白にスポットが当てられている。彼らの家族は、反政府軍に殺されたり、あるいは誘拐されたりしている。3人のうちの1人の少年は、反政府軍に誘拐され、悲惨な殺戮に加担させられた経験すら持っている。常軌を逸した惨状は、やはり思い出すだけでも胸が痛くなるようで、3人はすべてを語ることができない。にもかかわらず、とてつもない殺戮が行われていたことが伝わってくる。例えば「ぐつぐつと湯だつ鍋のなかから出てきたものが、母親の……」。

過去を振り払うかのように、彼らは練習に励む。もちろん生活環境は悪い。親がいないために、幼い兄弟の面倒を見ないといけないし、家の仕事もしなくてはならない。楽器も粗末なものが多い。しかし、やはり彼らは練習する。全国で優勝することを目標にして。国で一番の奏者になることをめざして。

音楽コンクールの会場は、首都カンパラの国立劇場で、聖歌、楽器演奏、民族舞踊など8つの種目で競われる。北部パトンゴからやってきた彼らは、いわば田舎者であり、高層ビルや電気を初めて目にして、度肝を抜かれる。他校のレベルの高さにも不安になり、雰囲気に飲まれそうになる。しかし次第に適応し、いよいよ最後種目である民族舞踊に向かってゆく。踊る順番は、前年優勝校の次である。アチャリ族として誇りを持って、存分に身体を動かし、声を上げる。最高の踊りをめざして。

当たり前のことであるけれども、希望を持ち、そして行動することは大事だと思う。彼らの涙は痛ましかったけれども、汗はまぶしかった。

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2008年8月22日 (金)

映画『船、山にのぼる』

マイナーな映画であるけれども、『船、山にのぼる』は人気があったらしい。この春、小さな映画館で上映されていたが、見そびれた。アンコール上映になったので、見に行った。広島県の山あい村で、実際に繰り広げられた出来事の記録映画である。

ダム計画が持ち上がったのが1965年。長期にわたり、ダム建設の賛否をめぐる論争があったが、1984年に決着し、ダムが建設されることになる。ダムの底に水没する集落の住民は、近くの高台に生活再建地をつくり、1993年から移転を開始する。集落に残された建物や樹木は撤去され、またダム湖となって水に沈む斜面の樹木もすべて伐採されてゆく。

同じ頃、ダム周辺を自然と文化の調和がとれた地域にするためアースワークプロジェクトが始まった。そのなかで、伐採される木を使って全長60メートルのイカダの船をつくり、山の登らせようというプロジェクトが持ち上がった。集落のあった場所で船をつくり、ダム完成時に行われる試験湛水(最高位まで貯水する)のときに船を浮かせて、山の上に移動させ、その後の水位低下(通常水位)を利用して山に設置するという狙いである。

集落の人たちは、ずっと木と一緒に暮らしてきたから、木と離れがたい。元の自宅敷地に生えてきた樹木を、生活再建地へ持ってゆき、移植する人もいる。根づくかどうか、わからないけれども、川沿いに立っていた、樹齢400年とも500年とも言われるムクノキの巨木を掘り出して、生活再建地での移植も試みる。あまりに大きな木であるために、ムクノキを乗せた大型トレーラーは坂道を登れない……。森の引越し。それが映画のテーマとなっている。

それなりに大きなイベントであるが、集落の住民たちは淡々としている。おそらくダム建設を受け入れることが最大の転機であったのだろうし、やはり住まいの引越しの方が大きな出来事だったのだろう。だから森の引越しには、後祭りのような、いくぶん気だるくて、冷めた雰囲気も漂っている。しかし、ゆるやかに締めくくることも大切なのだろう。

残念ながら、生活再建地で移植されたムクノキの巨木が無事に根づいたのかは、映画のなかでは触れられていない。結果も大事であるが、むしろプロセスがより大切だ、ということだろうか。山にのぼった船も、いつか朽ちてゆくはずである。それもプロセスも一部なのだろう。

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2008年8月 6日 (水)

映画『闇の子供たち』

幼児売春、臓器売買をテーマにした映画である。舞台はタイ、ミャンマーの農村で1人の少女がブローカーの手に渡り、チェンライの幼児売春宿に連れられて来る。そこで少年少女を買うのは先進国からの観光客である。痛々しくて、吐き気をもよおすシーンも少なくなかった。しかし『闇の子供たち』は秀作だと思う(映画に出演した子供たちに、それなりの配慮があったことを強く希望する)。

Yami1024_2舞台はタイであるが、日本人を中心にしてストーリーが展開されてゆく。日本の少年がタイで心臓移植手術を受けることになった。本来なら、移植心臓は脳死したドナーから提供されるはずであるが、どうやら生きた健康の子供の心臓を使うという情報が、タイ駐在の新聞記者の南部(キャスト、江口洋介)の耳に入り、彼はスクープを追いかけることになる。同じ頃、東京の大学で福祉を学んだ恵子(宮崎あおい)は、タイのNGOで活動するためにやってくる。南部はそのNGOにも協力を求めにゆく。

日本からやってきた恵子は、NGOの現地スタッフから「どうしてタイに来たの? 日本でもやることはあるでしょ」と出鼻をくじかれる。南部の同僚からも「どうしてタイなんだよ。どうせ自分探しだろ」と冷たくあしらわれる。そのうえ世間知らずで正論を振りかざし、南部たちの取材を結果的に邪魔してしまう。しかし、それでも彼女なりに考え、懸命に行動し、少しずつ道を開いてゆく。

とにかく手術を中止させるべきだと、恵子は声高に主張する。いっぽう南部は、生きた子供を売買する仕組みがあるという事実を明るみにすることで、仕組み自体を葬り去るべきだと言う。南部は危ない橋を渡りながら、生命を脅かされながらも、事実をつかんでゆく。記事にするには十分な情報を集め、気弱な青年カメラマン(妻夫木聡)の助けもあり、決定的瞬間の映像をとらえる。幼児売春から連れられてきた少女が、移植術の行われる病院の門をくぐった。ところが最後の最後にして、南部自身が抱えていた矛盾に行き着いてゆく。

この映画はフィクションであるけれども、事実に基につくられている。例えばスラムのシーンが出てくるように、タイの現実も映し出されている。タイの首都バンコクの人口は約800万人だが、そのうち2割ほどはスラムに住んでいると言われている。その方面の情報には明るくないのだが、どうやらタイでは性をひさぐことで生計を立てている人口がかなり多いらしい。映画では日本人客も出てくるが、現実もそうなのだろう。

多くの人々がスラムに住み、子供の生命や性が取引の対象になる。そのような貧困は日本にはほとんどないと思う。日本に生まれてよかったと思うか。それとも、そのような貧困を招いている原因のひとつが資本主義であり、日本も加担していると考えるか。いろいろな感じ方はあるだろうが、現状を目にすることは大切だと思う。この映画は現状そのものではない。ただし一面的であっても、現状を映し出している。

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2008年7月 1日 (火)

映画『バグズワールド』

映画『バグズワールド』。フランス語の原タイトル ’La.Citadelle.Assiegee’ (城砦の包囲)に示されているように、西アフリカの巨大アリ塚を舞台に繰り広がられる2種類のアリ戦いの物語である。登場するアリは4種類であるが、オオキノコシロアリとサスライアリの2つの群れに焦点が絞られて、ストーリーが展開されてゆく。

オオキノコシロアリは、数ヶ月かけて高さ3~4メートルのアリ塚を築く。アリ塚の中には数キロにも及ぶ地下道が張り巡らされ、空洞が複雑に入り組んでいる。煙突効果によって、数日ないし数時間でアリ塚内の空気は交換され、湿度や温度が一定に保たれている。オオキノコシロアリのエサになるのは、枯枝や植物の茎である。それだけではなく、彼らは自分たちの排泄物をもとに、アリ塚内でキノコを生産している。

いっぽうのサスライアリは、文字通り、固定的な巣はつくらずに、移動しながら生活している。一匹一匹のありは小さいけれども、束になって蛇を殺したり、あるいは小さな身体を絡ませて、アリの身体による仮設の橋をつくり、川を渡ってゆく。獰猛で、軍隊のような集団である。映画の中でも、黒の軍団と呼ばれている。

ずっと日照りが続いていたある日、ふいにハゲワシが現れる。不吉な出来事の予兆である。アリ塚に予期せぬアクシデントが降りかかり、堅牢なアリ塚に穴が開く。オオキノコシロアリは懸命にアリ塚の復旧作業を進める。ところが2千万匹ものサスライアリの大群が戦いを挑んでくる。まもなく壮絶な戦いの火蓋が切って落とされる。迫力あるBGM。戦士の雄たけびにも似た音響。アリたちの鎧が砕かれる音。戦況厳しく、追い詰められてゆくオオキノコシロアリ。はたして勝利の女神は、どちらに微笑むのか……。戦争映画さながらの演出である。

エンターテイメント映画としては、面白く出来上がっていたと思う。昨年の秋以降に公開された『北極のナヌー』や『アース』などが、いわゆる癒し系のエコ映画だとしたら、この『バグズワールド』はアクション系のエコ映画だと言えるだろう。自然の出来事というより、人間の手が入ったストーリーのようにも感じられるけれど、それにしても映像はよく撮れている。

ただし、オオキノコシロアリの生態について、もう少し詳しい情報があった方が良かったのではないだろうか。例えば、オオキノコシロアリのエサになる枯れ枝や植物の茎は、他の生物たちが消化できないものである。そしてシロアリだけでも消化しきれず、シロアリは体内に原生動物を住まわせることで、消化を促している。他の生物が消化しきればないエサは、当然のことながら栄養バランス(C-Nバランス)が悪いわけで、それを補うためにアリ塚でキノコを育てている。いわばアリ塚のなかで共生システムをつくっている。

付け加えると、シロアリが食べるのは、いわば枯れた木であって、生きている植物は食べない。そしてシロアリは植物繊維を消化する過程でメタンガスを生成し、それは地球上で発生するメタンガスの1~2割にも上ると言われている。二酸化炭素と比べると、メタンガスは21倍の温室効果がある。シロアリは、地球温暖化のひとつの要因であるが、人間による森林伐採にも深い関係がある。

しかしオオキノコシロアリにしても、サスライアリにしても、すごいと思う。特別な指示命令系統があるわけではない。にもかかわらず臨機応変に、組織だった行動がとられ、その群れならではの秩序がつくられてゆく。集団に知恵が宿っている。偉大なDNAのなせる技だろう。

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2008年6月26日 (木)

エコゴコロをくすぐる映画

このところ環境問題やエコをテーマにした映画が増えてきたように思う。そしてエコに関連する映画を紹介するウェブサイトも出てきた。例えば、エンターティメント業界紙「バラエティジャパン」のサイトには「エコゴコロをくすぐる映画20」というコーナーがある。タイトル通り20の映画が紹介されている。上映中の映画、これから上映される作品、すでにDVDになったものなど。僕自身がすでに見た映画もあれば、これから見ようと思っていたものもある。

Wall05_1024x768あくまで個人の趣味であるが、20作品のなかには、お勧めできる作品があれば、そうでない作品もある。今年初めに公開された『アース』はとても良かった。厳しい自然のなかで生きる生物たちを追いかけながら、カメラは北極から南極までの各地を駆けめぐる。映像が非常に美しく、圧倒されるほどの迫力があった。微妙な均衡のうえに成り立っている、地球の自然はかけがえのないものだと感じさせられた。一昨年のドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』も良かった。タンザニアのヴィクトリア湖にナイルバーチという外来魚が放たれ、外貨獲得のためにナイルバーチの白身が海外に輸出される。湖畔の町は経済的に潤うけれど、逆に貧困にあえぐ人たちも出てくる。身体を売る女性たち、クスリに走る少年たち。胃がずしんと重くなるような映画だったが、訴える力はあった。

いっぽう某国の元副大統領による映画は、まったく面白いとは思わなかった。映画というより、まるでパワーポイントによるプレゼンテーションである。ただし世間では高く評価されているから、僕の感覚が世間ズレしているのだろう(蛇足であるが、世の中パワーポイントに依存症になってきてはいないか。パソコンが接続されないと、話せないスピーカーがあまりに多い)。

この「エコゴコロをくすぐる映画20」以外にも、面白い映画は少なくない。これから、とくに中国で環境問題が深刻化すると予想されており、かりに「中国」×「環境問題」というキーワードで、お勧め映画を選ぶとしたら……。最近の作品では、次の3つぐらいだろうか。

長江哀歌』は、長江に建設される三峡ダムによって、やがては水没する街と、そこで行き交い、すれ違う人々の物語である。建物の解体現場のシーンがかなり出てくるが、四川大地震の被害の大きさが十分に理解できる。ほとんど耐震対策がなされていないと感じた。

それでも生きる子供たち』は、7カ国の子供たちを描いたオムニバス作品で、最後のストーリの舞台が中国である。何不自由なく暮らしてはいるものの、心が満たされない少女。貧困でありながら、夢を抱き続ける少女。涙腺がゆるい人であれば、涙を流すと思う(義母がそうだったらしい)。

トゥヤーの結婚』は、砂漠化が進む内モンゴルで、羊の放牧で生計を立てている家族の物語。砂漠化とともに、内モンゴルに市場経済の波もやってきつつある。ところがセーフティネットはまったく不十分である。生きてゆくには、ときに自分の意思を放棄することも求められる。人によっては、飲まずにいられない。

こうして書いてみると、ふと思う。エコをテーマにした映画には、どこか寂しさがある。環境問題が深刻になってきたことも理由のひとつだろう。あるいは生存競争が必至な世界だからかもしれない。すべてが生き残れるわけではない。無常である。

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2008年5月26日 (月)

映画『歩いても 歩いても』

普通の家族を題材にした映画『歩いても 歩いても』の試写会に行ってきた。タイトルの示されているように、歩いても歩いても、思うようには届かない。そんな家族の関係を描いた映画である。

もともと横山家の兄弟は、長男、長女、次男の三人だった。ところが15年前に長男が亡くなり、彼の命日に、長女と次男がそれぞれの家族を連れて実家に帰ってくる。その一泊二日間のやりとりがスクリーンのなかで展開されてゆく。

長女は、両親に対して何の遠慮もせずに自由に振舞う。そして長女の婿は、横山家の核心に近づくことはないが、三枚目的な役割を演じて場を和ませようとする。いっぽう次男は父親とはそりが合わずに、あまり言葉を交わそうとしない。見かねた次男の嫁は、夫の両親に気をつかい、言葉を引き出そうとする。嫁の仲介によって、家族の会話が続くことになる。どこにでもありそうな普通の帰省の光景と言えるだろう。

次男が息子に対して、「学校はどうだ?」と質問すると、「普通」という答えが返ってくる。他のシーンでも「普通」という言葉が少なからず登場する。この場合の「普通」とは、平均的であるけれども、むしろ面白みに欠けるというニュアンスがある。無事ではあるが、物足りない。普通とは常態であるから、やや足りない生活が繰り返されてゆくことになる。とはいうものの、普通も時代とともに少しずつ変質してゆくので、親子の間では、普通には相当のギャップがある。

普通であること、物足りなさを自覚しながら、少しずつ前に進んでゆく。普通のなかにも、それなりの満足感を得ることができる。

ありふれた普通が題材である。それを面白い映画にしようとすれば、かなりの創造性が必要になる。脚本と出演者の演技がとてもよかったと思う。ふんふんと納得できる部分も多かったし、笑いがあれば、人の心の弱さや狂気、残酷さも描かれていた。

映画のホームページでの僕の性格診断。それなりに当たっていると思う

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2008年5月23日 (金)

すべての生物たちと交信できた時代

森をテーマにした映画であり、そして映画と連動させて、森づくりのキャンペーンも行われている。基本的にはハリウッド映画は好きでないけれども、「森」に関心をそそられて『ナルニア国物語 第2章カスピアン王子の角笛』を見に行った。予想通りのエンターテイメント作品だった。『もののけ姫』というか、『ハリーポッター』というか、『ドラエモン』の世界である。原作が子度向けの小説であるから、映画の方も子供向けだと言えるだろう。ただし、もっと深い見方ができるかもしれない。

『ナルニア国物語』の作者のC.S.ルイスは、宗教の研究者でもあり、この物語は子供向けの小説ではあるが、聖書の内容や史実に基づいて書かれているそうだ。例えば、ナルニア国を滅ぼそうとするテルマール人は、ノルマン人(北方系ゲルマン人)がモデル。映画の中では、テルマール人は海からやってきて、街をつくったという設定になっている。8~9世紀にノルマン人がヨーロッパ各地を侵略し、建国したという史実がある。

ヨーロッパの歴史や聖書のことをよく知っているなら、もっと深く『ナルニア国物語』を楽しめるのだろう。残念ながら、そのような知識を僕にはない。

もともと森の中では、多種多様な生物たちが暮らし、そして、お互いのコミュニケーションができていた。人間は動物たちと話すことができたし、樹木ともコミュニケーションもできた。しかし心なき侵略者によって、自然が荒らされるとしまうと、動物たちは心を閉ざし、コミュニケーションが不能になる。豊かだった森は、不気味な場所になり、人から恐れられるようになる。生物多様性を尊重すべき、というメッセージが盛り込まれているのかもしれない。とはいうものの殺戮のシーンがとても多い。しかし自然のなかでは、食うか食われるかは日常のことである。

映画なかでライオンの登場を見ながら、アフガニスタンのことを思い出していた。かつてアフガニスタンには豊かな森があり、ライオンがいたそうだ。ライオンだけでなく、トラやユキヒョウ、チーター、クマなど、いろいろな動物がいたそうだ(蛇足だが、ニンジンの原産地もアフガニスタン)。しかし長く戦乱が続き、森は失われ、動物の多くは消え去った。周りから植物や動物が消えてゆけば、当然のことながら人間と生物たちが交信する機会も少なくなり、そして交信能力も低下してゆくことになる。でも考えてみれば、同じことは日本にも当てはまる。

この映画のロケ地はニュージーランドで、スクリーンでは壮大な自然の風景を目にすることができる。まだ美しい自然は残っている。訪れてみたいような気分が半分、行かないべきだと思う気持ちが半分。中途半端な気持ちで、森や海に足を踏み入れると、ダメージを与えることになる。それが重なってゆくと、アフガニスタンのように荒れた場所になるかもしれない。

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2008年4月21日 (月)

ドキドキの映画『プルミエール 私たちの出産』

世界各地の出産を撮影したドキュメンタリー映画が『プリミエール』である。

いつ陣痛が始まるのだろうか。出産はとても苦しいけれど、新しい生命を体内から生み出す神秘的な行為である。苦しみの果てには喜びがある。できるだけ早く彼女を苦痛から解放し、みんなで喜びを分かち合いたい。見ている側はドキドキ、ハラハラして待つことになる。映像も美しく、編集も巧みで、ずっとドキドキ、ハラハラしっ放しの映画だった。世界各地の出産シーンが細かくシャッフルされ、同時進行的にシンクロナイズしてストーリーが進んでゆく。

冒頭からインパクトのあるシーンが繰り出される。プールのなかで、下半身が露にした妊婦さんが、背後から男性に支えられている。少し離れた場所には2頭のイルカが泳いでいる。イルカたちは鼻先で、妊婦に軽くタッチする。すると、まもなく妊婦の股間から新しい生命が現れてくる。イルカが出すメッセージ(声)は妊婦にも胎児(もしくは新生児)に好影響を及ぼすという。イルカのサポートによる出産シーンは、メキシコで撮影されたものである。

アメリカでは、共同生活を送る4組のカップルのうち1組のカップルが彼らの住居で自然分娩を行うとする。アマゾンの先住民族カヤポ族は、出産前に身体じゅうに伝統的なペイントを施し、助産婦に見守られて出産する。いっぽうベトナム、ホーチミンの病院では、出産は医療行為の範疇とされ、分娩台に乗せられた妊婦さんが次々と子供たちを産み落としてゆく。出産は、自然に行うべきというメッセージが出されているようにも感じられる。しかし話はそう単純ではない。

サハラ砂漠のトゥアレグ族は、屋外つまり砂の上で出産するそうだ。ある女性の出産は、とても時間の長い難産となった。周囲の者たちは窮状を見かね、ヤギを神への生贄へと差し出す。人々は砂漠に伏して祈りを捧げる。しかし残念な結果に終わってしまう。近代的な医療にアクセスできたら、違った結果になったかもしれない。

カメラは、いろいろな国の女性たちに向けられる。ベナレス(インド)の貧しい一家の女性、マサイ族の女性、日本人で自然に子供を産もうとする女性、シベリアの遊牧民の妻、臨月までショーで踊るフランス人女性。いずれも、それぞれに個性的な女性たちだったが、とくにクールで、格好よかったのがマサイ人の女性である。スキンヘッドで精悍な顔立ち、笑顔はとても少なかった。

マサイ族は一夫多妻制で、彼女の夫には百人の子供がいる。今回の出産に当たっては、夫は女児の誕生を望んだという。やがて嫁に出せば、見返りとして、牛が手に入るからだそうだ。もちろん夫婦の愛情もあるのだろうが、厳しい環境下で生きてゆくための結婚であり、出産のように思われた。出産は苦しいけれど、日常的な行為であり、子孫を残すことは、みずからが生きてゆくことでもある。

出産の世界一周旅行のような映画で、最後に登場するのがフランスでの出産である。臨月まで踊るダンサーの夫(もしくはパートナー)は、なかなかの美男である。しかし出産では、直接的に大きな役には立たない。出産する本人よりも焦っていたりする。しかし精神的にサポートをすることはできる。まったくの無力という訳ではない。

男性にとっても、かなりお勧めの映画だと思う。

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2008年3月 4日 (火)

映画『トゥヤーの結婚』

トゥヤーの結婚』の舞台は砂漠化が進む内モンゴル。遊牧民の4人家族が住んでいる。ただし夫のバータルは、井戸を掘るときに大怪我をして下半身不随になり、働くことができない。幼い2人の子供と夫を養うために、妻のトゥヤーはひとり黙々と働かざるを得ない。羊の世話もほぼ彼女の仕事であるし、十数キロ離れた井戸に、毎日に2回水を汲みに行かなくてはならない。しかし、その井戸でさえ水量が頼りなくなってきた。やがて身体の酷使がたたって、トゥヤーは病院に運び込まれる。

見かねたバータルは、トゥヤーに離婚を提案する。トゥヤーは離婚手続きを済ませたものの、バータルを見捨てることはできない。そこで、元の夫の面倒も見てくれる再婚相手を探すことにする。働き者で、美人のトゥヤーのもとには次々と求婚者がやってくる。しかし2人の子持ち、しかも元・夫つきの彼女にところにやってくるのは、ひと癖もふた癖もある人物ばかり。しかし彼らは経済的に裕福である。内モンゴルといえども、市場経済の波がやってきている。

やがてトゥヤーは、経営者となった同級生と再婚する決意をし、マチに向かう。砂漠のなかの道なき道をクルマで走り、やがて陸路はコンクリートで舗装された道路となり、走るにつれて送電線も現れてくる。にぎやかなマチの介護施設に元・夫バータルを預け、高速道路に乗って、同級生の家に向かう。ところが、まもなくバータルは自殺未遂をし、同級生との再婚話も解消することになる。そして家に戻り、遊牧民としての生活を再開し、改めて再婚相手を探すことになる。紆余曲折を経て、とうとう彼女は再婚することになり、婚礼の儀を迎える。

映像は美しく、なかなか面白い映画だったと思う。おそらくは過放牧のために砂漠化し、荒涼とした乾いた土地。しかし壮大な風景である。ただし風景とは対照的に、遊牧民家族の住居のなかには、ねっとりとした空気があり、それぞれの登場人物にも生暖かな存在感がある。いっぽうで砂漠にも似たような諦めのような乾いた感覚も漂っている。草木が減り、砂漠になったものは仕方がない。起こったことは仕方がない。他に道を求めればいい。けれど諦めながらも、トゥヤーはそうではない。

この物語の大きな特徴のひとつが、お酒とお茶を飲むシーンがとても多いことだと思う。ひと息つくときに、お茶は飲まれる。いっぽう、お酒の方は何かを忘れたいときに飲まれる。痛み、悲しみ、寂しさなどを忘れるために飲む。ときには自分のことさえも忘れてしまいたい。酒はいっときの憂さ晴らしに過ぎない。それでも飲まずにはいられない。ただし男たちと違い、トゥヤーは深酒はしない。彼女の淹れるお茶はひと味違う。堪えきれなくなったときには、彼女は涙を流す。そして困難に立ち向かう。

世界的にみて、お酒の消費量はかなり増えているのだろう。いっぽう人々が流す涙の量は減っているのかもしれない。

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2008年1月15日 (火)

いのちの壮大な物語り・映画『アース』

映画『アース』を見てきた。文字通り地球を舞台としているだけに、とても壮大な映画だった。映像が非常に美しく、またドラマチックで、こんな場面をよく撮影できたものだと感心してしまう。

Wall04_640x480地球を北から南へと旅をする設定で、映像がつながれてゆく。映画には人間は一人も出てこない。動物たちが生きてゆく様子が映し出されるだけである。北極海では氷が薄くなったために、シロクマの足場は脆弱になってハンティングがより難しくなった。北極から少し南に下ると、何百万頭ものトナカイが食料を求めて何千㎞と移動している。広葉樹林が育つ地域になると、生物たちの活動が活発になり、熱帯地帯ともなると、まさに生物の宝庫であり、色鮮やかな鳥たちが個性を競い合っている(写真はゴクラクチョウの求愛ダンス)。

弱肉強食で、厳しい乾期があるアフリカにも、やがて雨の季節がやってくる。乾いた土地にも、みるみる緑が甦る。水にどっぷり浸かり、洪水のような状況であるけれども、動物たちの表情には潤いが戻ってくる。水は生命の源であり、雨を降らせるのは太陽のエネルギーである。それは地球上のすべての場所に当てはまり、水を象徴するシーンとして、落差1km近くのエンジェルフォール(滝)の空撮映像が映し出される。まさに息を飲む壮大なシーンだった。

熱帯付近で子供を産んだザトウクジラは、食料が豊富な南極付近の海をめざして南下する。途中で嵐に遭遇すると、親子はヒレで海面を叩きながら泳いでゆく。嵐のなかでも、ヒレで海面を叩く音は聞き分けることができるので、はぐれることはない。目的としていた海に到着すると、彼らは群で漁をする。海中深くから、数頭で息を吐き出して、泡のサークルをつくる。そのサークルでオキアミを囲い込むのである。この他にも、生物たちの素晴らしい知恵や機構がたくさん見られた。

多種多様な生命を育むという点で、地球という惑星は非常に優れた装置だと思う。そして生物たちは、さまざまな環境に巧妙に適応してきた。まるで地球というシステム全体が、精緻な知恵を持っているかのように思えてくる。神秘的であり、非常に合理的でもある。

美しく、しかも神秘な合理性。いつまでも残すべきだと思う。

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2007年11月16日 (金)

映画『いのちの食べ方』

胃が重くなり、食欲がなくなった。映画『いのちの食べ方』を見ての、率直な感想である。この映画の原題は "OUR DAILY BREAD"。日々の食卓に上がる食べ物がどのように生産されているかを撮影したものである。EU各国の農場や家畜の飼育場、屠畜場で撮影された映像がただ流れるのみで、セリフはひと言もない。牧歌的な風景はなく、執拗なまでに工場のような効率的な生産システムばかりが映し出されてゆく。

1棟で、ゆうに1ヘクタールを超えるであろうガラスハウスが無数に連なっている。そのなかではトマトやパプリカが栽培されている。作物を消毒するときは、作業員は防塵服に身にまとい、防毒マスクを装着する。いっぽう家畜たちは狭い畜舎で飼育され、やがては近代的なベルトコンベアにつるされて素早く解体されてゆく。そして屋外の農場では、とても大きなトラクターによって農薬が散布され、農作物が収穫されてゆく。その光景は、まるでSF映画の一場面のようでもある。機械的な食料生産には莫大なエネルギーがかかる。人間の食料は、石油で出来ているように思えてくる。

むかつく映像だけれども、そのなかにも美しい映像がある。見渡すばかりのヒマワリに、セスナ機が農薬を散布してゆく。鮮やかな黄色い花と、霧のように白い農薬は好対照をなし、見た目にはエレガントでさえある。解体されるウシは、まず機械で腹を割かれる。直前まで元気だったウシの内臓は新鮮で、ぷりぷりとした弾力があって、てかてかと輝いている。工業的な機械ラインのなかにあっても、生命は美しさを放つのかもしれない。ただし美しいけれども、胃を重くする。

映画のなかで、食料生産の現場で働く人たちの食事風景が映し出される。乾いた食事風景である。EUの主食はパンであるが、固いパンを咀嚼するには、モゴモゴと口を動かすことが必要になる。その動作には、ある種の諦めがあるように見えてくる。そのような態度があるからこそ彼ら彼女らの仕事が続くのかもしれない。

工業的な食料生産、そして諦めを含んだ態度。この両者は、互いを促進し合うというループにある。ループを抜け出すのは難しいけれども、行き着くところは単純明快である。現状を直視し、そのうえで意識と行動を変えることである。EUにおいて食料生産の工業化、効率性追及が進んでいるのは、たしかに事実である。しかし有機農業の推進もEUは積極的である。例えば、全農地に占めるオーガニックな農地の割合は4%で、その割合は徐々に拡大しつつある。イタリアでは2割近くにもなるそうだ。(日本は0.2%程度である)。農業にも希望はある。映画『いのちの食べ方』では、負の面しか表現されていなかった。希望にも目を向けるべきだと思う。

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2007年11月 9日 (金)

お金より大切なもの

前作が秀作であれば、えてして続編はレベルが落ちてしまいがちになる。それは映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』にも当てはまったと思う。前作を見た人であれば、続編のストーリー展開は容易に予想できたはずだ。予想できるからこそ、また期待通りに話が進むからこそ、安心して見ていられる。それも映画の楽しさのひとつかもしれない。

映画の主人公の茶川竜之介は、売れない小説家で生活費にも事欠く始末である。茶川と同居する少年をめぐって、ある会社社長が竜之介の前に立ちはだかる。竜之介は「お金より大切なものがある」と社長に主張し、一念発起し、思いのたけを込めて、美しい物語を小説として書き上げる。そして美しい物語は、周囲から高い評価を受けることになる。しかし社長は「小説とは違い、現実は甘くない」と竜之介に言い放ち、それを竜之介も渋々受け入れる。ところが竜之介の思いはようやく届き、美しい物語は成就し、社長は「お金より大切なもの」を認めることになる。

お金より大切なものがある。しかし、お金より大切な何かを守るためには、やはりお金は必要である。前作では、ヒロインのヒロミは、父親の病気療養費を支払うために借金を背負ったという設定だったし、今回の続編でも、その設定を引き継いでいた(当時は国民皆保険制度がなかった)。竜之介が美しい物語を書こうと思い立ったのも、お金のためである。

いまや人間の社会では、お金は必要不可欠なものであり、生きたお金の使い方、生きたお金の稼ぎ方をすべきなのだろう。さもなくば、お金にただ囚われることになり、お金より大切なものを追いやることにもなりかねない。そのためにも正面からお金に向き合うことが重要である。現実的な姿勢があってこそ、美しい物語が現実のものとなる。

映画のなかでは「お金よりも大切なもの」という、あえて単純なセリフが使われていたが、より正確には「お金で買えないものを大切にしたい」ということだと思う。お金も大切にしながらも、お金で買えない何かも大切にすることである。

しかし映画を見ながら「お金って大切だなあ」と、つくづく思った。あえて逆説的な「お金より大切なもの」というセリフを使ったのは、製作する側の意図なのだろうか。

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2007年10月23日 (火)

映画『北極のナヌー』

地球規模での気候変動によって北極付近では、氷が少なくなり、ホッキョクグマやセイウチをはじめとする生物たちの生息環境が危うくなっている。映画『北極のナヌー』は、そのことを描いた作品である。主人公としてメスのホッキョクグマのナヌー、そしてメスのセイウチのシーラ。2頭が生まれて、次の生命を育むまでの物語である。

Nanu_kabegami01_1024_2映像がとても美しい作品である。そして北極の海の豊かさを実感できる作品でもある。北極の海は夏を迎えると、たくさんの魚が集まり、魚を求めて、クジラやシャチもやってくる。生物たちの楽園を思わせるシーンもあった。しかしホッキョクグマにとって、氷のない夏は厳しい季節である。ある程度の厚さの氷があるからこそ、氷の下の獲物をシロクマが捕獲することができるのである。

秋になると、氷が張り出して、ホッキョクグマにとって狩りのシーズンになるが、やはり生息環境は楽なものではない。ホッキョクグマが生きてゆくためには、とても広い後背地を必要とする。だから子供が成長してくると、親子が一緒に暮らすよりも、それぞれが別々で行動する方は、お互いに生存できる確率が高くなる。ナヌーにも、母親と別れる時がやって来る。それまで育ててきた娘ナヌーに向かって、母親は激しく威嚇する。その厳しい表情がとてもよく撮れていた。

ホッキョクグマとは対照的に、セイウチは何十頭もの拡大家族で暮らす。シーラの面倒を見てくれるのは母親だけではない。子供な拡大家族にとっては宝のようだという。

気候変動を題材にした映画であるけれども、そのことは、さらりと触れられているだけである。むしろ生物たちへの慈しみが表れている。ナヌーもシーラもかなり擬人化されて描かれているが、さほど違和感はない。北極の動物たちも、人間と同じく地球の住人であるのだと思う。場合によっては、彼らの生命をいただいて、人間が生きているわけだけれども。

ホッキョクグマ、セイウチ、ワモンアザラシ、ホッキョグギツネ、イッカク、ハアシブトウミガラス。個性あふれる動物たちが生きてゆける環境を残したいものである。

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2007年10月13日 (土)

映画『サウスバウンド』

東京浅草と沖縄の西表島を舞台にした『サウスバウンド』という映画を見てきた。主人公の二郎は小学6年生、両親と姉と妹の5人家族で、下町で暮らしている。父親の一郎は、もともと活動家のリーダーで、いまでも体制に従うことを良しとせず、正義を貫こうとする変わり者である。年金の支払い督促に対しては「それなら国民を止める」と言い出すし、小学校の修学旅行の代金が不当に高いと、学校に駆け込む始末。そもそも学校という仕組みにも疑問を持っている。

そんな一家だから東京は住みにくい。そこで一家は、父親一郎の先祖代々の土地である、八重山諸島の西表島に移住することになる。聖地としての土地を守りながら、自給的な暮らしを営もうとしていたものの、いつ間のにやら、土地は中央の不動産開発会社に買収されていたことが分かる。不動産会社は大きな施設をつくるために、立ち退きを迫ってくる。しかし一家は、土地は生活の当事者である島民のものであって、中央の資本家が開発する権利はないと頑なに拒み、対決姿勢を鮮明にする……。

実際に、ほんの少し前に西表島に大きなリゾートホテルがつくられた。長年、西表島で生物の実地調査を行っている研究者から聞いたところによれば、大型開発は環境破壊以外の何者でもないという。いちおう環境アセスメントは行っているけれども、都合によいものでしかない。そのため西表島に固有な生物種は明らかに減っているそうだ。『サウスバウンド』は西表島の実情を示しているし、日本の社会全体のことも表現していると思う。

ところが映画という表現形式の限界がある。一定の時間内に収めないといけないから、背景となる情報を省かなくてはならない。エンターテイメントとしてキャスティングや場面設定も考えないといけない。かつての活動家が(三里塚闘争かな?)、いま現代を生きるという設定となっているけれども、父親が豊川悦司で、母親が天海祐希というのは、どう考えても若すぎる。もちろん2人の演技とは良かったけれども。

映画を見た後で、公式サイトを見て、ある面で納得し、ある面ではほっとしたことがある。ロケ地が西表島でなかったことである。映画で映し出される景色を見て、どうも西表島には見えなくて、かなりの違和感があった。どうやら撮影は沖縄本島中部の複数ヶ所の場所行われたようだ。けっこう大掛かりのシーンもあったので、あれが西表島まであったとしたら、かなり環境へのダメージがあるのではと思っていた。

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2007年9月12日 (水)

映画『長江哀歌』

世界最大の水力発電ダム、中国の三峡ダム。下流域の洪水を抑制し、中国の消費電力の1割程度をまかなうことが可能だといわれている。すでに8割が完成し、竣工予定は2008年。ダムは大きな利便をもたらすが、100万人以上の人たちが移転を余儀なくされるなど、負の影響も生み出した。映画『長江哀歌』の舞台は、水没しつつある古都、奉節である。

遠く離れた山西省からを2人の男女が奉節にやってくる。男性は16年前に別れた妻を捜しに、いっぽう女性の方は2年間も音信不通の夫を捜しにやってくる。ところが男性の妻の住所はすでに水没し、彼女は転居したことがわかる。妻の兄、すなわち義兄に居場所を尋ねても、色よい返事はもらえない。そこで建物解体の仕事にありつき、しばらく奉節に滞在することにする。

いっぽう女性の夫は、ダム景気をとらえて事業家として成功し、あちこち飛び回っている。携帯電話もつながらないし、仕事先を訪ねても会うことができない。そのうえ事業オーナーである女性と特別な関係にあることを、従業員から聞かされる。オフィスに掲示されたポスターから、オーナー女性はとても美人であることもわかる。

この映画は、混み合った客船内のシーンから始まり、船が到着すると、怪しげな見せ物小屋での手品のシーンとなる。そこで披露される手品はひとつだけ。真っ白な紙がドル紙幣に変わり、次にユーロ紙幣に化け、最後には中国元紙幣となる。そして半ば強制的に客引きされた観衆に向かって「どうだ、やり方がわかっただろ」と言う。あまりにも直裁的すぎるとも思うが、これが『長江哀歌』のメッセージのひとつでもある。

三峡は、紙幣に描かれるほどの中国の景勝地である。かつては山紫水明だったはずの街はすでに水に沈み、これから水没する予定の街の住民は立ち退きを迫られ、建物は壊されてゆく。古い街に代わり、山の上に向かって近代的な街がつくられてゆく。街を壊し、新たな街をつくるという過程で、多額のお金が荒々しく流れてゆく。うまく荒波に乗れる者もいれば、そうでない者もいる。しかし自由化が進む社会では、お金は生きてゆくためには欠かせない。ときには人間の生命に大きな傷跡を残し、生命と引き替えになることもある。もちろん傷跡は自然環境にも残ることになる。

『長江哀歌』の物語はフィクションであるけれども、映画の舞台は実際の場所であり、登場する風景も事実である。たしかにエネルギーを確保するという点でダム建設は必要なのかもしれないが、とてつもない規模の環境破壊であり、その場所固有の文化や人間関係を失わせてゆく行為だと思う。しかしながら、そのような混乱を生き抜くたくましさを人々は持ち合わせている。大切な人のことを思う心も持っている。救いはある。

僕はネクラなので、脳天気なハリウッド映画などはほとんど見なくて、陰のある映画を見ることが多い。お腹にズシーンと来る映画のなかでも、とくに『長江哀歌』は重くズシーンときた。中国という国の凄まじさが伝わってくる映画である。

Dam 






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2007年8月22日 (水)

すべてがお金

プライスタグ』という映画を見た。すべてのものには値段があって、お金さえあれば、何だってできる。現代の社会は、貨幣経済で覆いつくされつつある。『プライスタグ』というタイトルは、そのことを示している。

映画の舞台は神戸市で、主人公は中学3年生の正太郎。彼のクラスメートである聡子が九州小倉に転向することになった。正太郎は聡子に「引越しせずに、一人暮らしをしたらいい」という。しかし正太郎は、そのために、どのくらいのお金が必要かぜんぜん知らなかった。そして偶然、違法な手段で法外な金額を稼いでいる同級生、篠原に出会い、誘われるまま行動を共にするようになる。

何ものかに憑かれたように稼ぐ者もいれば、懸命に汗を流しても、わずかな収入しか得られない人も少なくない。負け組みと呼ばれる人たちにとっても、お金は生きてゆくために不可欠な糧であり、人々はお金に囚われてゆく。しかし、お金があるからこそ、大切な人を守ることができる。正太郎と聡子は遠く離れ離れになるけれども、こつこつとお金を貯めてゆけば、やがて会いに行くことができる。たしかにお金には冷酷な一面もあるけれども、うまく使えば、暖かなものとなる。化け物になれば、人を包み込む毛布にもなる。

円やドルなどの法定通貨は、お金がお金(利子)を生むという点で自己目的化し、そのために非人間的だと考えられている。そして近年は、非人間的な法定通貨を補完するものとして、地域内のみで流通し、金利を生まない地域通貨が提案されることが多くなってきた。しかしグローバル化は避けて通れないから、円やドルなどの法定通貨とは、この先ずっと付き合わなければならない。だとしたら法定通貨にしっかりと向かい合うべきである。それもお金を稼ぐようになる前の、日常的にお金を目にする年頃から。

おそらく中学生であれば、『プライスタグ』はじゅうぶんに理解できる内容だと思う。最近、株式投資をテーマに授業を開く小中学校があるそうだ。どうやって稼ぐか。あるいは失敗をどのようにカバーするか。もちろん、そのようなノウハウも大切である。ただし、お金がすべての世の中だからこそ、お金の哲学を学ぶことは必要でないだろうか。お金の冷酷さ、お金に溺れることの愚かさ、暖かさ……。『プライスタグ』は格好の題材のひとつになる。

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2007年8月13日 (月)

映画『ヒロシマナガサキ』

映画『ヒロシマナガサキ(原題:WHITE LIGHT/BLACK RAIN)』を見た。ちょうどお盆休み、しかも終戦記念日が間近ということもあって、映画館は超満員。補助席も設けられていたくらいである。

この映画はドキュメンタリーフィルムで、広島、長崎の14人の被爆者、原爆投下に関わった4人のアメリカ人へのインタビュー、そして当時のアメリカのテレビ報道などで構成されている。物語り仕立ての映画ではなく、次々とカットが変えられ、淡々と情報が流されてゆく。もちろん原爆投下という大惨事に遭った人たちの口から出てくる言葉は、とても悲惨なものであり、目を覆いたくなるようなシーンもある。しかし、だからこそ見る側に、あえて「直視すべきだ」と訴えてくる。ドキドキしながら見入っていた。悲しさより、むしろ人間が内包する危険性が伝わってきた。

いまも昔もアメリカは、そう変わっていない。当時のアメリカのニュース番組などに感じられるのは、「力こそが正義」であるという雰囲気である。もちろん、それは戦時下ならではの雰囲気かもしれないが、戦後しばらく経った時点で制作されたテレビ番組にも、勝者ならではの余裕の態度は十分に残っていた。

いっぽう日本はどうだろう。映画の冒頭と最後のシーンでは、東京渋谷の若者たちが映し出される。彼らに「1945年8月6日は何があった日ですか?」とインタビューしても、ほとんども者は答えることができない。被爆者は身を晒してまで、核兵器の悲惨さを訴える。しかし時とともに被爆体験は風化し、関心が低くなってゆくようだ。

現在の世界には、広島、長崎の核爆弾の40万倍に相当する核兵器があるという。広島、長崎では14万人もの生命が奪われた。40万倍というのは、人類を滅ぼすには十分な量である。力は正義であると信じ過ぎること。あるいは無関心でいること。いずれも重大なリスクを見逃すことになる。環境問題に似たところがある。

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2007年7月31日 (火)

『天然コケッコー』

映画『天然コケッコー』を見た。舞台は日本海に面した島根県の山村。小中学生合わせて6人という村の学校に、東京からイケメンの男子生徒「大沢広海」が転校してくる。方言丸出しの中学2年生の少女「右田そよ」にとっては初めての同級生。中学2年生という年頃は多感で、そろそろ異性が気になってくるし、都会への憧れやコンプレックスも抱くようになる。大人たちの世界も垣間見るようになる。美しい田園風景ではゆっくりと時間は流れ、そよと広海は二人の関係を少しずつ近づけてゆく。淡い恋愛物語といえるだろう。

Wallpaper1_1280僕が『天然コケッコー』を見ようと思ったのは、まず、ローカル線の寂れた駅を撮影したポスターに懐かしさを感じたからだ。僕が育ったのも日本海に面した小さな町で、そして近くにはローカル線が走ってものの、旅客列車は1時間に1本あるかないかの場所である。だから、この映画には共感できるだろうと思ったのである。そして新聞や雑誌などでの映画評論も、この映画を高く評価していた。きっと面白いだろうと予測していた。

さて、どうだったというと、そんなに気持ちを動かされなかったのである。もちろん映画は丁寧につくられているし、多感な少女の揺れる心も表現されていた。まるで兄弟姉妹のように過ごす村の子供達も楽しそうだったと思うし、ほのぼのとする。海や山や田畑も美しかった。日本にも、こんな美しい風景がまだ残っていることを改めて思い知らされた。ところが、あまりに納得できることばかりで、そのために僕にとっては刺激が少なすぎるのである。もちろん僕が田舎の出身であるために、そう思うのであって、都会で生まれ育った人には大いに刺激になるのかもしれない。

「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」。さやが映画の後半でささやく場面がある。日々の時間は淡々と過ぎてゆく。そのなかで失われていくもの、自分が気づかないものは少なくない。平凡な日々のなかに、一瞬一瞬のなかに大切なものはある。素直な気持ちになれば、それが見えてくる。そのような見方をすれば、秀作だと言えるかも。

淡々とした村の生活がエンターティメントになる。それは村の大きな可能性でもある。

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2007年6月26日 (火)

映画『殯の森』 & 土と生命の循環

河瀬直美監督による映画『殯の森』を見てきた。映画の舞台は奈良県東部の山間地、グループホームに暮らす認知症の男性高齢者「しげき」と新任介護福祉士「真知子」の心の交流を描いた物語。今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した話題の作品である。面白かった。エコビレッジ的な世界も描かれていたと思う。

22_6河瀬直美さんがつくる映画は、どちらかというとストーリーが明快でない。そんなに大きな起伏があるわけではなく、淡々と物語が進んでゆく。しかし今回の『殯の森』にはかなり明確な起承転結があって、ストーリーは比較的わかりやすかった。他の映画の中でも見たようなデジャビュ(既視感)を伴ったシーンがあり、先の展開が読める場面もあって、従来の作品に比べるとエンターテイメント性が高かったと思う。それでも途中で帰ってゆく観客もいたけれど……。

ご本人は、わざわざ仰っていないが(仰っているかも)、河瀬直美さんは土を大切にする人だと思う。これまでの作品でもそうだったし、『殯の森』のなかでも菜園での作業シーンが登場する。市場に出荷することを目的とした畑ではなく、自分たちの食べるものをつくるための菜園である。生命を育む大地。土に手を入れることは、みずからの生命を支えることになる。いっぽう死者を自然へと還してくれるのも土である。人間は土はと共に生き、大地を次の世代に引き継ぎながら生きている。『殯の森』のラストシーンでは、激しく土に手が入れられる。生命への覚悟が暗示されていたように思う。しげきは疲れ果てて安らかに死を想い、吹っ切れた真知子は生きてゆく決意を新たにする。

『殯の森』を見たのは東京渋谷の映画館だったのだが、英語の字幕が付けられていた。外国の観客向けのサービスなのだろうか。ただし日本人にとっても英語字幕はじゅうぶんに楽しめる。『殯の森』が日常を描いた作品であるために、セリフは芝居がかっておらず、ささやくような言葉もあって、聞き取りにくい部分もある。あるいは英語字幕の方が、しっくりと意味が伝わってくる箇所もある。つまり英語字幕が解説のような役割を果たしているのである。

個人的には『殯の森』は秀作だと思っている。しかし、どんな映画を面白いと感じるかは一人ひとりの趣味の世界である。面白くないと思う人もきっといるだろう。そこで後悔しないために。これまで河瀬直美さんの映画を見たことがない人は、GYAOシネマで『萌の朱雀』を無料で視聴してみてください。『萌の朱雀』を面白いと感じた人であれば、『殯の森』も興味深く見ることができると思います。ちなみに10年前につくられた『萌の朱雀』も、最新作である『殯の森』も冒頭シーンはほとんど同じで、緑の山肌の遠景。とてもビックリ。緑ゆたかな奈良という土地に対しての、河瀬直美さんの思いの現れなのかもしれない。

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2007年6月 4日 (月)

『楢山節考』と持続可能性

久しぶりに『楢山節考』の映画(今村昌平監督バージョン)を見て、そして深沢七郎による原作小説を読んでみた。このところ社会保険庁の年金問題のごたごたが続いている。はたして僕たちが60歳代後半なったときには、年金制度は持続しているだろうか。それで老人を山に棄てることを題材とした『楢山節考』のことを思いだし、レンタル店でDVDを借りてきた。原作と映画化された物語では、一般には原作の方が面白いと言われることが多い。しかし『楢山節考』の場合は、それぞれに面白さがあって、甲乙つけがたい。いずれも秀作だと思う。

『楢山節考』の世界では、70歳を迎えた老人は山に行くことが村の掟となっている。貧しい村では食料が限られているから、口減らしをするためである。主人公の老婆「おりん」は、山に行くことを積極的に受け入れていて、やがて息子の「辰平」に背負われて山に行く。『楢山節考』は棄老を題材としているけれど、むしろ親子の情愛をテーマにしているのだと思う。何歳になろうが子供は子供。おりんは十分に達者でありながら子供たちのために山に行くことを当然と考えている。いっぽう辰平は最後の最後まで母親のことを思いやり、ラストシーンでは年かさのゆかない少年にようにもなる。おりんと辰平の情愛に深さは、同じ日に山に入った別の親子と対照させて描かれている。

未来を子供たちへ残してゆくことが親は仕事であり、ときには非情にならざるをえない。そして、おりんは死をもって、親としての仕事を完成させることなる。死があって、生がある。非情のなかに情がある。そのことが映画では、原作小説よりもずっと強調されている。だから映画ならではの残酷なシーンがあるのだと思う。

持続可能な開発、すなわち次世代の欲求を満たすことのできる環境を残してゆくことが世界的課題となっている。そのためには人間の活動を、地球の環境容量の範囲内に収めることが必要だと言われている。最近、日本では政府の教育再生会議の提言にも見られるように「親学」なるものに脚光が集まりつつある。『楢山節考』はかなり古い物語であるけれども、現代の社会においてもじゅうぶん示唆的である。持続可能な未来は、親の後姿にあるのだと思う。

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2007年6月 1日 (金)

映画『それでも生きる子どもたちへ』

来週末からの封切に先駆けて、試写会で『それでも生きる子どもたちへ』という映画を見た。7つの国の子どもたちを、7カ国の映画監督たちがドキュメンタリー風に描いた作品である。7つの物語で構成され、上映時間はやや長めの130分。エンターテイメント作品でないので、退屈するかと思っていたが、スリルもあったし、かなり面白かった。今年の同系列の映画としては 『不都合の真実』『ダーウィンの悪夢』も見たけれど、その2作品よりずっと秀作だと思う。

描かれている子どもたちは、いずれも過酷な環境に置かれている。内戦のためにマシンガンを持って生きるルワンダの少年たち。親に盗みを強要されるセルビア・モンテネグロの少年。両親がHIVキャリアであったために、生まれながらに感染者となったアメリカの黒人少女。廃品を回収することで生計を立て、ブラジルのスラムで暮らす兄妹。とてつもない格差社会で生きる中国の少女たちなど。世界の子どもたちの窮状を救うことを目的に、この映画は製作されたそうだ(そのため募金などの仕組みも用意されている)。

この映画はフィクションである。ただし実際に、その国で起きている悲しい事実を映し出していると思う。だから映像のなかの子どもたちに同情してしまう。子どもたちの窮状を引き起こしているのは、大人たちがつくった社会の構造であるから、胸も痛む。ところが一方で、救われるような気分にもなる。子どもたちが自分たちの状況をしっかりと引き受けて、幼いながらも生き抜こうとしている。逃げ出さず、進もうとしている。希望はゼロでないし、力はある……。人の感じ方はそれぞれだけど、お勧めの映画だと思う。

アメリカの子供を描いたのは『マルコムX』などを監督したスパイク・リーである。そのなかで「ハッピー・ミール」という言葉が出てくるが、字幕では「マック」と訳されていた。ハッピー・ミールは簡単に手に入れることができる。しかし幸福を手に入れることは簡単なようでもあり、難しくもある。本人の受け止め方次第、行動次第である。

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2007年4月17日 (火)

映画『ボンボン』を見た

Wallpaper01_1280_3アルゼンチン南部のパタゴニアを舞台にした映画『ボンボン』を見た。主人公は、52歳で職にあぶれ、娘の家の居候する、冴えない男性。ひょんなことから彼はボンボンという犬を未亡人から押しつけられ、譲り受ける。そして偶然、ボンボンは名犬であることがわかり、やり手のドッグトレーナーと出会い、わずか1週間でドッグショーに出場し入賞する。すると雌犬への種付け依頼が舞い込んでくる。犬をもらったことで、とんとん拍子で幸運が舞い込んでくるが、世の中そんなに甘くない……。この先を書くと、これから映画を見る人の楽しみを奪ってしまう可能性があるので、省略。

この映画の特徴のひとつが、出演者のうちプロの俳優としてのキャリアを積んだ人物が1人しかいないことである(それも子役)。主役のフアン・ビジェガス役を演じているのはフアン・ビジェガス氏本人で、ガレージで20年間働いてきたという彼は、本人ならではの渋い味わいを出している。彼のうっとりした表情はもちろん演技だとは思うけれども、まさに生き生きとしている。例えばドックショーでボンボンが入賞したシーンでは、ほんとうに自分のことのように嬉しそうなのである。あたかも事実が運んでいるがごとく、そのシーンに没入しているみたいだ。じつにリアルである。そう言えば河瀬直美さんの「萌の朱雀」もプロの俳優は1人だけで、残り全員が村人という映画で、とても面白かった。ある意味でエコビレッジっぽい映画だったけど。

ずっと昔、犬とかdogという動物はいなくて、彼らは野生の動物だった。しかし人間に飼われることで、犬やdogとなり、野生の自由を手放す代わりに、人間のために仕事をし、エサをもらうようになった。持ちつ持たれつの共生的な関係ができあがった。ただし人間も犬も自然のなかで生きているし、内なる自然を持っている。ところが人工化が進んだ現代社会は、もしかすると内なる自然を抑圧することにもなりかねない。自由なラテンの地においても人工化は進んでいる。けれども自然はまだまだ残っている。映画のラストシーンは、そのことを象徴しているような気もする。

それにしてもパタゴニアの空はとても大きくて、吸い込まれてゆきそうである。いつかは行ってみたい。

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2007年1月30日 (火)

『ダーウィンの悪夢』

映画『ダーウィンの悪夢』を見た。不謹慎な表現になるかもしれないけれど、とても面白かった。同じエコ系列で、ちょうどいま『不都合の真実』が上映されているけれど、そっちより訴えてくる力はずっと大きかった。タンザニアの人々の生活に密着したドキュメンタリーで、すべて生々しい事実で構成されている。派手な演出はなく、淡々と事実が伝えられてゆく。それでも内容は衝撃的であり、お勧めの映画だと思う。

アフリカのビクトリア湖に、巨大な肉食の外来魚ナイルバーチが放たれた。ナイルバーチは在来種を食い尽くし、どんどん増えてゆく。そしてナイルバーチは食用に適していたため、漁業や加工業が栄えてゆく。白身魚の輸出先はEUや日本である。ただし資本主義の世界はお金がすべてであり、弱肉強食を推し進めてゆく。加工されたナイルバーチの切り身は高価であるために、地元の人たちの口に入ることはない。貧富の格差は広がり、売春やエイズが蔓延し、湖の環境悪化も深刻な問題になってゆく……。

もちろん映画の内容はタンザニアの一面を示すものであり、それがタンザニアのすべてではない。しかし、たしかに惨状は実在するし、日本とも関係がある。日本ではナイルバーチは主に外食産業の白身魚フライに使われているそうだ。僕自身も口にしたことがあるかもしれない。そしてナイルバーチ以外の食べ物でも同じようなことはあるだろう。

ちなみに昨日の日本経済新聞の月曜連載「領空侵犯」では、タンザニアの大統領が登場し、記事のなかで「タンザニアはアフリカの優等生」だと紹介されていた。優等生にして、この惨状だから、周辺他国の状況は推して知るべしなのだろう。そのことは『ダーウィンの悪夢』でも仄めかされている。

そしてパーマカルチャーの創始者、ビル・モリソンのことを思い出した。約10年前に一緒に飲みに行って、こっぴどく説教されたことがある。「先進国の奴らは途上国の自然や食料を収奪して、のうのうと生きている。いまだに戦争をやっているのと同じだし、日本人も非人間的なことをし続けている……」。一方的に話す彼に、なかなか反論はできなかった。

自分の見えないところで起きている悪夢。もしかして身近でも悪夢は起こっているかもしれない。多くの人に見て欲しい映画だと思った。

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