死別
1週間以上の長い夏休みだったが、とくに出かけることはしなかった。死期を向かえた近親者がいたので、すぐに対応できるよう、ずっと自宅にいた。外出は、畑に農作業へ出向くなど、近場に限っていた。そして多くの者が休みとなる、お盆になって、故人となった。皆が集まりやすい日程を、故人は選んでくれた。葬儀は限られた身内だけで行われた。
葬儀は、誰のために行うものなのだろうか。故人を弔うというより、むしろ残った者のために行うものではないだろうか。故人の意識は消えている。いっぽう残された者は、気持ちを整理することも必要となる。故人の死によって、普段は集まらない身内が一堂に会し、縁や絆の大切さを改めて確認する。
故人が千の風になって、残された者を見守ってくれる、という歌があったけれども、僕はそうは思わない。やはり死によって、人の意識は無へ帰するのだと思う。故人に見守られるというのは、この世に生きる者が、自分の頭のなかで生み出すフィクションなのだろう。もちろんフィクションを上手に利用することも有意義なことである。
人間は必ず死ぬ。遅かれ早かれ、死は誰にでもやってくる。だから医療を行ううえで、ときに諦めも必要だと思う。故人もそう考えていたらしく、医師から進められた手術も受けず、入院もしなかった。そして自宅で寝たきりとなってから、約1月半で旅立っていった。苦痛に喘ぐ時間は、それほど長くなかった。良い死に方だったと思う。
僕は、かなり冷めた性格である。葬儀で涙を流すことはないと思っていた。しかし出棺の間際になって涙が流れてきた。故人の遺体の周りに、色とりどりに花を手向けるときに、故人の顔を正視できなかった。葬儀を終え落ち着いてから、どうして悲しいのか、あれこれ考えてみた。いろいろな理由に行き着いた。しかし、すとん腹に落ちるものは何もない。ただ悲しい。それで十分である。
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